信州・桃源郷街道 長門町の魅力・歴史/伝説を歩く その1
長門町「大門街道の里」
小県郡長門町旧大門村 四泊から大門峠まで現在の国道152号沿線
大門街道は武将「武田信玄」信州侵攻の重要な軍路として知られていますが縄文
時代には黒耀石搬出道として、大和朝廷時代には古道(東山道)として利用された
街道である。大門街道沿いには縄文時代の遺跡、県宝仏岩の「石造宝きょう印塔」、
信玄所縁の遺跡や古くからの街道らしい田舎の佇まいを感じる歴史深い地域です。
観郷資源
武田信玄の信州侵攻軍路として大門街道は重要な役割を果たしました。「姫木平別荘地」は標木平と呼ばれ、川中島合戦で天下制覇を夢見た兵士のストレス解消の慰安所とも伝承されています。縄文時代の遺跡や、山城の殿城山に縄文から戦国の世に思いを馳せ、自然豊かな地を存分に感じて下さい。
鷹山は昭和の開拓地です、薪つくりや炭焼きなどで生計を立て苦労を重ねてきました。現在では高原野菜の産地として、スキーリゾートとして高原の爽やかな風を感じます。星糞峠は縄文人が大切にした「黒耀石」の採掘場所で国の史跡に指定され、明治大学、長門町が発掘調査を進めています。
大門川と本沢の渓谷に挟まれた狭い凝灰角礫岩が高さ200Mもの尾根をなし、そこに仏岩があり、その天辺に塔があります。銘のある「宝きょう印塔」では、長野県最古と言われ昭和34年に県宝に指定されている。応長元年 (1311年)に造られた供養塔ですが、誰を供養したものかは判明していません。
武田信玄は、川中島出陣の際にこの清水を賞味したと言い伝えられています。信玄が病に倒れ「宮の上の清水」が飲みたいと部下に汲みに行かせたが距離の近い「強清水」を汲んで詮議にかけられたが、美味い水で罪になりませんでした。それ以来、宮の上の清水を「またたび清水」と呼んでいます。
本沢は「佐久と依田窪地方の水瓶」と言われ蓼科山を水系とした水量の多い沢で大小の滝があり、自然と渓流の美しさは絶賛です。また、「役の行者超」の呼称や古代の蕨手刀が出土し、原初の東山道の支流と考えられています。元禄時代の雄大な事業、千石原(古町)開墾の長三郎堰の取水口があります。
稲荷神社の本殿は文化9年に再建された。本殿、鳥居の彫刻、境内の高辻が町指定の文化財となっている。高辻とは相撲の土俵で江戸の相撲部屋の隠し稽古場です。大門の高辻は、仙台・伊達家の角辻、小諸の蛇の目辻と並んで日本3辻の1つに上げられます。雷電もこの高辻で耐えられた一人です。
星糞峠の黒耀石採掘遺跡に見られるように多くの縄文人たちがこの街道を利用して黒耀石の加工や運搬、生活跡など石器時代の遺跡があります。峠に近 いハレハレ遺跡、標の木遺跡、追分遺跡、堂道遺跡、苗鎌遺跡、平沢遺跡、明神原遺跡などの出土品は古代ロマン館、ミュージアムに展示されています。
性崇拝は原始社会から古代、中世、近世を通じて盛んに行われていた。大門神社の社宝の石棒、陰陽石など崇拝の対象となっている。祭紀を合わせて伝承しているのが「窪木のお子安様」である。部落から1.5キロ程林道を登り、岩陰の広場で祭紀が行われましたが、今でも公民館で祭紀が行われています。
大門地域の縄文遺跡で、有史以前の理想郷と言われている明神原遺跡、近代では養蚕の桑畑として、現在は田んぼとなっている桑の木原と呼ばれる台地にあります。農作業準備休憩室と言われる施設で、農業体験、蕎麦打ち、郷土料理の講習などを通じ田舎の人と都会の人たちの交流拠点となっています。
大門街道 宮の上集落から大茂沢林道を2km程上流に登り、山道を10分ほど歩くとそそり立った岩の向こうに「不動の滝」を見上げることが出来る。
こんもりと茂った木立の中を落下する清水は瀑布して尊厳である。この滝で役の行者が「行」をしたと伝えられており、「行者の滝」とも呼ばれている。